遠い昔と遠い未来とをつなぐために

ヒカルの碁 1 (ジャンプコミックス)

ちょうど世紀の変わり目頃だっただろうか、『ヒカルの碁』のジャンプ連載やアニメ放送に影響されて碁を始める子供が急増し、「小中学生に囲碁ブーム」などとマスメディアでもだいぶ話題になっていたと思う。日本棋院の少年少女囲碁大会の参加者は、毎年1,000人台で推移していたのがブームのおかげで5,000人を超えるようになったとか、そんな話もあった。『ヒカルの碁』の監修者でもある梅澤由香里プロが、「漫画を読んで碁を始めた子は、習い事としてやらされている子とは目の輝きが全然違うんですよ」と言っていたような記憶もある。

それはそうだろうと思う。『ヒカルの碁』は現代日本を舞台とし、囲碁を題材にしてジャンプ伝統のバトルトーナメント漫画を構築してみせる、という離れ業を成功させた作品であり、これを読んだ子供は碁を打ってみたくなるに決まっている。
だって碁を覚えればパシーンと石音高くカッコいい手つきで手筋を繰り出したりできるし、碁会所で強面のオッサンをコテンパンにやっつけたり、同年代の宿命のライバルに出会えたりするかもしれないんだぜ。才能があれば日本棋院の院生になって勝ち進み、中学生のうちにプロにだってなれるかもしれない。そしていずれは世界を征服することだって! これはもう、やるしかないよな。

でももちろん、碁にだって適性というものがあるので、歳が若く、碁が好きで、努力をすれば誰でもヒカルのように強くなれるというわけではない。全然ない。『ヒカルの碁』を読んで碁を始めた子どもたちのほとんどは、残念ながら、棋道の蘊奥を究め、本因坊秀策の打碁集を座右に置くような域にはまったく到達しないであろう。これは否定できない事実だ。彼らはそんなに強くはないけど碁が好きな人として、碁以外の領域を人生の主戦場として生きていくことになる。

しかし彼らもいずれ何か他の分野において、人間文化の歴史性という問題や、古典作品あるいは古典作家という存在に本格的にかかわることがあるかもしれない。もしそういうことがあるとしたら、その時に彼らは必ずこの『ヒカルの碁』という作品を思い出すであろうし、その時にはこの作品に描かれた様々なエピソードを道標として、遠い過去に生きた先人に対して戸惑うことなく堂々と、しかし敬虔に、向かい合うことができるであろう。

この『ヒカルの碁』という作品の真価は、まさにここにこそある。主人公の進藤ヒカルとその師匠である藤原佐為の霊とのかかわりをめぐるメインストーリーの様々なエピソードは、ひとりの少年と古典作品/古典作家とのかかわりを、なんと美しく、繊細に、楽しく、一言で言えば完璧に形象化していることだろう。

ヒカル自身の棋力が向上するにつれて、師であり友である佐為の底知れぬ力をいよいよ深く認識し、敬意とともに親しみもますます深まること。
しかしそのように汲みつくせぬ智慧の泉のように見える師がヒカルを教え導くことができる道のりも、客観的な視点からから見れば実は有限でしかないこと。
しかし師弟関係という枠組みの中の弟子という位置にあるヒカルだけは、決してそれに気づき得ないこと。
そして単純な師弟関係の枠組みの中でヒカルが師から学びうることは、ある時点においてついに尽きてしまい、それと同時に彼は師を永久に失ってしまうこと。
師を完全に失う一瞬前までそんな事態の到来をまったく予期していなかったヒカルは、驚愕し、混乱し、絶望し、碁から遠ざかること。
しかしある日ふとした行きがかりで心ならずも碁を打たされた時、自分が考えて打つ手の中、自分が打つ碁の局面の中に、師の打ち手の遠い残響、すなわちいくら探しまわってもどこにも見つからなかった師の臨在を、不意にありありと感じて絶句し、落涙し、これから再び碁を打って生きてゆこうと決意すること。
その後、ヒカルはある夜の夢に懐かしい師の姿を見ること。その夢の中で師は無言で、しかし笑顔で、愛用していた扇子をヒカルに手渡して消えること。
ヒカルはその後、夢で手渡されたものと同じ扇子を買って、それを手に持ち対局に臨むようになること。

これらのエピソードはどれも完璧な強度を持ってくっきりと鮮やかに描き出されているから、読者はその後みずからの人生において似た状況を体験することがあった場合、それがどのような文脈におけるどのような出来事であったとしても、あるいは出来事ですらないかすかな予兆のようなものであったとしても、絶対にそれを見逃すことはない。
それにしてもこの作者(ほったゆみ)は、どうしてこのようなすべてのことを、これほどまでに良く分かっているんだろう?

古典作品に友として親しみ、遠い昔の名人巨匠を師と仰ぎ、もはや世にない者たちとの対話あるいは闘いを通じて何かを手にしようとする者は、人間の文化の言語に尽くせぬ深遠さを体感すると同時に、この世のものならぬ危うい光芒に身をさらし、死者の国の奥底によどむ闇の中を経巡ることにもなる。
そのような旅路から我々の世に生還することができた者は、きっと一本の扇子かそれに類した何かを手にしていることだろう。彼もまたいずれ死者となった後、遠い未来の誰かに扇子を渡すことになるのかもしれないし、そうはならないかもしれない。

一つ確実に言えるのは、彼が手にした扇子は、彼が生涯をかけて得た唯一のものだとしても、十分それに値するということである。

譲り得ぬ一点

将棋の子 (講談社文庫)

大崎善生『将棋の子』を最近再読した。初読時には気づかなかったが、今回の再読で非常に面白いと思った点が一つあるのでこの記事を書く。

本題に入る前に、この本がどういう本なのかという概要をざっと説明しておこう。『将棋の子』は、雑誌『将棋世界』の編集長だった大崎が将棋界を題材として書いたノンフィクション作品で、『聖の青春』に続く二作目。その内容は、プロ棋士の養成機関である新進棋士奨励会を、プロになれないまま退会しなければならなくなった若者たちの人生である。プロ棋士になるためには一定年齢以下で四段に昇らなければならない、という年齢制限があるのだ。

ちなみに大崎はこの本を書いた後小説家になり、べたべたに感傷的で甘ったるくとても読むに堪えない恋愛小説のようなものを……まあ悪口は止めておこう。大崎氏のその後はこの文章の主題ではないし、私は別に彼に恨みも何もない。

先述のとおり、『将棋の子』のテーマはプロ棋士になるための厳しい競争に挑みそして敗れ去っていった元天才少年たちのその後の人生なので、この本の中では、一般にはあまり知られていない新進棋士奨励会の内情や、挫折者たちが抱く深い屈託や絶望などが克明に描き出されており、その意味で誰にとってもたいへん面白く読めるものになっている。

「小説家は、自分の文章ではなく自分の人生を、特に自分の人生の不幸を切り売りしたいという誘惑と常に戦わなければならない」という意味のことを言っていたのはたしか水村美苗だったと思うが、実にその通りだ。自分の知らない世界の内輪の事情というのはおおむね興味深いものだし、他人の不幸の物語はもちろん常に面白い。「奨励会退会者たちのその後の人生」というテーマを設定した時点で、この本はほとんど誰にとっても読むに値する、面白い本になることは約束されていたと言っても良いだろう。大崎の文章がまずくても、別にそんなのは大した問題ではないのだ。

以上がこの本の概要についての説明なのだが、私が今回再読して感銘を受けたのは、この本に登場する青年たちの中の主役である成田英二についてであった。

成田は、著者の大崎と同じ北海道の出身だということもあり、またその人格が痛々しいまでにあからさまに未成熟だということもあって、この挫折者たちの群像劇の中で中心的な位置を与えられている。彼は自身の奨励会退会と前後して両親を亡くし、300万円の遺産をポーカーゲーム機につぎ込んで二週間のうちにすべて失ったあと、北海道に帰ってもサラ金での借金を膨らませて実の兄に迷惑をかけて絶縁され、パチンコ店の住み込み店員になったり、古紙回収業者のタコ部屋に暮らしたり、という読者の期待にたがわぬ転落人生を送ってくれるのだが、私が胸を突かれる思いをしたのは、彼をめぐるある一つのエピソードについてである。

彼は奨励会員だった間、定跡の勉強をまったくしようとせず、そのためいつも序盤でひどく形成を損じた。中終盤で逆転して勝つこともあるにはあったが、しかし対戦相手が強くなればそういうわけにもいかず、結局負け続けであった。著者大崎を含む周囲の人々は成田のそんな状況を見かねて、少しは定跡を勉強しろ、序盤を研究しろ、と助言する。しかし彼は頑として聞き入れない。

「定跡の勉強は?」コーヒーをすすりながら私は成田に聞いた。
「いや、こっちそれはまったくしない」と成田は答えた。
「それで、いいの? 成田の序盤はなってないって将棋世界に書かれていたろう」
「ああ、あれかい。あんなの関係ないっぺさ。序盤で損したって、終盤で逆転してやるんだから、それがこっちの将棋だ」
「でもなあ、勉強しておくに越したことはないんじゃないの」
「いや、関係ない。こっちはこっちの考えがある。人の真似して、みんなで同じ将棋指したって意味ない。研究なんて意味ない。自分は自分だけにしか指せない将棋を指すんだ」

さらに十一年後に大崎と再会した時にも、彼はこういうのだ。

「ああ、こっちの将棋はめちゃくちゃだったね。だって、考えてみれば全部作戦負けなんだもん」
「でもそんなことわかっていたんだろう? 勉強しなきゃ、簡単に作戦負けになってしまうことくらい」
「うん、でも、こっち終盤だけでひっくり返してやるって思っていたから。それに人まねはしたくなかったし」
「でも定跡の研究は別に人まねじゃあないだろう」
「いや、絶対にまねだ。こっち、自分だけの考えで、自分だけの将棋を指したかった。それで勝てなかったとしてもしかたないと思っている。才能がなかったということだっぺさ」
「ふーん、頑固だなあ、あいかわらず」
「こっち、将棋のやり方や考え方は間違っていないと今でも思っているよ。だってこっち、奨励会を卒業するとか棋士になるとかそれだけを目標に将棋を指していたわけじゃないから。こっちにしかできない自分の将棋を指してみたかったんだから」と成田は言った。

このエピソードは、成田の性格の奇矯さ、頑なさ、あるいは定跡の勉強のような地道な努力から逃げる甘さの表れとして解釈するのが自然なのかもしれない。私も初読時にはそんな風に理解していたのだと思う。
しかし今回再読して感じたのは、成田は文字通り、彼の将棋(≒人生)を成り立たせるための最も重要なポイント、自分が自分として誇りを持ち続けるためにはこれだけは譲れないという一点を、決して譲ることなく守り抜いたのではないか、ということだ。そしてそのように読むと、奨励会の退会駒を懐に抱いてタコ部屋に起居する成田という人物の存在が、にわかに燦然たる輝きを放ちはじめる。

定跡の勉強は人真似だから自分はやらない、という彼の強い主張の背後にある論理を、常識になずんだ我々が想像することは難しい。彼の将棋観においては、盤の前で考える即興性のようなものが重要だということなのだろうか、あるいは、あらかじめ手の有利不利を調べておいたり他人の指した手順を覚えておいたりすることは、隠し持ったコンピュータに詰め手順を調べさせてそれを指すのと同様の卑怯な行為だというような感覚があるのだろうか。

それは私にはわからない。しかし彼が定跡を勉強せず結果的にプロになれなかったのは、彼が愚かだったからでも怠惰だったからでもなく、ただ自らの信念を守り通しそれに殉じたためだ、と文字通りに信じることは、なぜか私にはできるのだ。成田の言葉は、嘘偽りのない真実なのだ、と私は本当にそう思っている。

彼が自分の信念を捨てて定跡を勉強したとしても、誰にもいっさい非難されることはなかったであろうし、彼が何らかの不利益をこうむる心配もなかった。事態は間違いなくその逆で、彼の奨励会での勝率はきっと上がったであろうし、二段から三段へ、そして四段へとあと二段階奨励会を勝ち上がれば、プロ棋士になれたのだ。そうしたら癌におかされて死を目前にした母親は、どんなにか喜んだことであろう。

しかし彼の中の法廷はそのようなことを許さなかった。いや、きっと彼は内心の法廷の判決を受けてしかたなく定跡の勉強を断念したわけではなく、そのように自分の信念に背き誇りを捨てることなど、端から問題にすらしなかったのに違いない。なぜなら、そんなことをして勝ち、プロになり、母親を喜ばせたところで、それが彼の将棋にとって何の価値もないことはわかりきっていたのだから。

自らの内にそのような譲り得ぬ一点を持ち、それを守り抜く者は幸いである。

利得や名誉を求めて、あるいは苦痛や惨めさを恐れてそのような一点を放棄し、自らが自らであることの誇りを失ってしまった者は、たとえ生きながらえて日の光を仰いでいようとも、そして栄達のどのような高みに昇ろうとも、もはや存在しないも同然である。そのような生にはもはや語るに足る価値などありはしない。
しかしその一点を守り続け、自らの内なる誇りを失わない者は、何十年にもわたる魂の暗い夜を孤独に歩き続け、最後には路上で餓死し凍死したとしても、その生は総体として祝福されていることだろう。
そのような生の中にこそ、真に栄光と呼ぶにふさわしいものが宿るのだ。

ポール・ヴェルレーヌ よくみる夢

Mon reve familier


Je fais souvent ce reve etrange et penetrant
D'une femme inconnue, et que j'aime, et qui m'aime,
Et qui n'est, chaque fois, ni tout a fait la meme
Ni tout a fait une autre, et m'aime et me comprend.


Car elle me comprend, et mon coeur transparent
Pour elle seule, helas! cesse d'etre un probleme
Pour elle seule, et les moiteurs de mon front bleme,
Elle seule les sait rafraichir, en pleurant.


Est-elle brune, blonde ou rousse? Je l'ignore.
Son nom? Je me souviens qu'il est doux et sonore,
Comme ceux des aimes que la vie exila.


Son regard est pareil au regard des statues,
Et, pour sa voix, lointaine, et calme, et grave, elle a
L'inflexion des voix cheres qui se sont tues.

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よく見る夢


僕はよくこんな夢を見る。不思議に心に残る夢だ。
知らない女がいて、でも僕は彼女を愛し、彼女も僕を愛している。
彼女は会うたびごとに、まったく同じままというわけでもなく、
かといってまったくの別人になるわけでもない。そして私を愛し、私を理解してくれる。


彼女が理解してくれるので、私の心も
彼女に対してだけは透明になり、頑なさを忘れる。
彼女に対してだけは。そして私の額の脂汗も、
彼女だけが涙を流しながらぬぐい去ってくれる。


髪の色は栗色か金色か赤か? それはわからない。
名前は? 想い出せるのはただ、甘くそして嫋々と響く、
世を去った恋人の名のようだということのみ。


その眼差しは彫像の眼差しのごとく、
その声といったら、遠くやさしく、しかし真剣で、
死んでしまった愛しい者の声のような響きを帯びている。

唯一の理解者であり恋人であるような不思議な女性の献身的な愛によって、自分でも扱いかねる自分の心の孤独と屈託とが慰められ、解きほぐされる、という若きヴェルレーヌ(たぶん十代だ)の幻想あるいは妄想を、夢の記述という形で呈示した詩。詩形としてはソネットの形式をとっており、内容面でも前半の二連と後半の二連とで明らかな転調が見られる。具体的に見てみよう。

前半二連では、主題となる幻想の本筋が語られるが、具体的な描写は意外なほど少なく、幻想のあらすじを説明的に提示しただけに近いと言えるかもしれない。特に、彼女が私を「理解する」とはどのようなことか、本来はそこにこそすべての問題があるはずなのだが、この詩では me comprend の一言ですべてが解決済みとされる。確かに夢ではそういうことがありがちだ。完全な愛と理解といったようなものが、すでに夢のストーリーの前提として与えられている、というようなことが。
しかし第二連で語られる、私の額の脂汗を彼女が涙を流しながら rafraichir する、というイメージには胸を衝かれるような生々しさがあり、この二連全体が宙に漂わないための要となっている。(実際、全体的な文脈は書き割りじみているくせに、細部には妙なリアリティがある、というのは夢の特徴でもある。)
そして、自分の心について、cesse d'etre un probleme と表現しなければならないことの苦々しさ! 彼の魂は probleme である程度には高貴であり、しかしそれを probleme として認識しなければならない程度には平凡なのである。改めて確認するが、彼女はこの probleme の救済者であって、それが彼女からの一方的かつ完璧な理解と献身とによって実現される、という枠組みこそがこの詩の幻想の核心なのであり、ここに萌えない人にとっては、結局のところこの作品はあまりピンと来ないものではあろう。

後半二連は一転して、彼女の描写にあてられる。どちらの連も、最初の一行で視覚的な描写、後の二行で聴覚的な描写を提示し、聴覚的な描写の方は、どちらも死んだ恋人のイメージに(しかし全然違う単語を使って)結びつける、という技巧的な構成になっている。後半二連には特に音楽的に美しい行が多く、やはりこういった方面でヴェルレーヌが本気を出せばさすがだと思い知らせてくれる。私の趣味では、この詩の中で最高の一行は、Son regard est pareil au regard des statues, だ。美しい。
これは何の根拠もない個人的な想像だが、ヴェルレーヌは視覚よりも聴覚からの入力に対して敏感で、ある種の音楽や人間の声に対して陶酔感を味わいやすい人だったのではないだろうか? 後半二連の内容における音声への異常なまでのこだわりを見ても、どうもそのように思えてならない。


ちなみに、ヘルマン・ヘッセもこの詩を愛したらしく、韻文訳を作っている。

Ich traeume wieder von der Unbekannten,
Die schon so oft im Traum vor mir gestanden.
Wir lieben uns, sie streicht das wirre Haar
Mir aus der Stirn mit Haenden wunderbar.
Und sie versteht mein raetselhaftes Wesen
Und kann in meinem dunklen Herzen lesen.
Du fragst mich: ist sie blond? Ich weis es nicht.
Doch wie ein Maerchen ist ihr Angesicht.
Und wie sie heisst? Ich weiss nicht. Doch es klingt
Ihr Name suess, wie wenn die Ferne singt -
Wie Eines Name, den du Liebling heisst
Und den du ferne und verloren weisst.
Und ihrer Stimme Ton ist dunkelfarben
Wie Stimmen von Geliebten, die uns starben.

正直、全体的に見てヴェルレーヌの原作に迫る出来だとは思えないが、しかし素晴らしい部分もある。

Und sie versteht mein raetselhaftes Wesen
Und kann in meinem dunklen Herzen lesen.


彼女は私の謎に満ちた本質を理解し、
この暗い心の中を読み取ることができる。

この二行は、間違いなく原作第二連のニュアンスの多くを伝えているし、それ固有の美しさを持つことにも成功していると思う。
特に、ヴェルレーヌの mon coeur ... cesse d'etre un probleme / Pour elle seule, という言葉に乗せられた苦々しさを敏感に読み取り、まったく違う言葉で再構成して見せた力量は称賛に値する。

文章家としてのカエサル

ガリア戦記 (講談社学術文庫)

ガリア戦記 (講談社学術文庫)

ガーイウス・ユーリウス・カエサルジュリアス・シーザー)は文章家として極めて評価が高く、彼の『ガリア戦記』や『内乱記』はラテン語散文の模範とされている、というような話を聞いたことがある人は多いと思う。

しかしその評判を耳にして、たとえば翻訳の文庫本を読んでみても、淡々とした文章が続くばかりでいったい何が名文なのかさっぱりわからない、という感想を持った読書人は、実は日本全国に相当数いるのではないかと私はにらんでいる。少なくとも私は、そのような疑問を直接ぶつけられたことが一度ならずある。

訳文はかなり読みづらいものだった。だが、そんなことは少しも構わぬ。発掘された彫刻の表面が腐蝕しているようなものである。原文がどんな調子の名文であるかすぐ解って了う。

小林秀雄ガリア戦記

と誇らしげに言う小林秀雄のような人は、例外中の例外なのではあるまいか。(より率直に言わせてもらえれば、小林がいったい原文を「どんな調子の名文」だと思ったのか、その内容の妥当さについてもいささかの疑いなしとはしない。)

その上さらに面白い事実として、カエサル読みたさに(というわけでもないだろうが)ラテン語を勉強した人ですら、ようやく原文を読めた『ガリア戦記』の文章に失望しがちだということがある。ラテン語の初等文法の学習書には、カエサルからの引用文がふんだんに散りばめられるのが伝統であるし、初等文法を学び終えたぐらいのレベルで読まされる副読本として『ガリア戦記』が選ばれることは非常に多いものなのだが、まあそれらの文章を読んで、「なるほど、これがカエサルか。確かに名文だ!」と膝を打った人の話など聞いたことがない。

カエサルの文体は雄渾簡潔であるというような世評があるから、はじめて彼の文章に接する人はそこに、ある種の漢文のような極端に引き締まったきびしい簡潔さを期待し、たとえば短文を叩きつけるように連ねて躍動感をみなぎらせるとか、限界まで削られたわずかな言葉によって嫋々たる余韻をかもし出すとか、そのような感じの技巧が用いられているものと予想しがちであるが、残念ながら実際のカエサルの文章はまったくそのようなものではない。簡潔な短文などというものはあまり登場せず、それどころか従属節をいくつも連ねた長い文章ばかりであるし、省略によって余韻をかもし出すというよりも、むしろいろいろなことをしつこく説明し尽くすような文章である。

それでは「技巧的な簡潔さ」が見られないとしたら、逆に『平家物語』や『太平記』ばりの華麗な対句や、典雅な語彙の美しさなど「技巧的な過剰さ」があるのかといえば、そんなものはもちろん作品全篇にただの一つも出てこない。

じゃあいったいどこが名文なんだよ、ただの新聞記事みたいな文章じゃないか、と言われそうであるが、実はその通り、それがほぼ正解なのである。

しかしただ一つ知っておくべきは、カエサルよりも前の世代のラテン語散文の書き手たちは誰も、多くの複雑な情報をうまく整理して一つの文章にまとめるだけの文章力を持っていなかった、ということだ。これはローマ人は馬鹿ばかりでまともな文章ひとつ書けなかった、ということでは必ずしもなく、ラテン語自体が語彙においても統辞法(従属節における時制や法の使い方など)においても、まだまだ未熟な言語だった、ということなのだ。

これはちょうど日本の明治期に、まさに生まれようとする言文一致の文章法を確立させるために、美妙斎、二葉亭、紅葉、逍遥、鷗外、露伴などなどがおのおの工夫を凝らしていたというのと似ている。カエサルはそのような時代に生まれ、「事実を伝えるためのラテン語」の文章法を確立した大家だったのである。(他方、「弁論のためのラテン語」を確立したのは、同時代に生きたキケロー。)

Labienus postquam neque aggeres neque fossae vim hostium sustinere poterant, coactis undecim cohortibus, quas ex proximis praesidiis deductas fors obtulit, Caesarem per nuntios facit certiorem, quid faciendum existimet. Accelerat Caesar, ut proelio intersit. Eius adventu ex colore vestitus cognito, quo insigni in proeliis uti consuerat, turmisque equitum et cohortibus visis quas se sequi iusserat, ut de locis superioribus haec declivia et devexa cernebantur, hostes proelium committunt.


ラビエーヌスは、保塁も壕も敵の攻撃を持ちこたえることができなくなると、運よく近くの陣営から引き出すことに成功した十一個大隊を集結させ、なすべきと考えることを使者を通じてカエサルに告げる。カエサルは戦闘に加わるために急ぐ。外套の色によってカエサルの到着を知り(彼は戦闘の際、それを目印として身に帯びるのが常であった)、カエサルがついてくるように命じておいた騎兵の集団と歩兵大隊とを見ると(頂上付近から、味方がいた中腹の斜面に対して視野が開けていたため見ることができた)、敵は戦闘を開始する。

ガリア戦記』の典型的な一ページとはこのようなものであり、そこにはおよそ目に立つような技巧は何も用いられていないが、しかし戦闘における各人の考えや行動を、様々な付帯状況を交えつつこのように明晰に記述することは、ラテン語においてはカエサルによって初めて可能になったのである。接続詞や時制や法や独立奪格句の使い方についてラテン語の文法書に載っている鬱陶しい規則の多くが確立されるにあたっては、カエサルの工夫が与って大きかった、ということを人は知らねばならない。そして、それら鬱陶しい規則の数々によってはじめて、主節を重視するタイプの(弁論型ではなく事実報告型の)高度な散文が書けるようになったのだということも。

そのようなわけで、ラテン語に関して十分な文体感覚を持っている者が上のような文章を読むと、そこに登場する単語すべてが散文にふさわしい純正なラテン語であり、その活用形や曲折形のすべてが散文においてまさにかくあるべき形であり、叙述の対象となる事実の本筋と、その背景や付帯状況とが、実に手際よく主節と従属節と独立奪格句とに振り分けられており、それらの従属節における接続詞や時制や法がすべて完璧なまでに適切であることを即座に感じ取り、その文章の書き手の筋の良さに感嘆するのである。

そして同時に、これほど正確で明晰な文章を書けるほどの能力と教養とが備わった文章家であれば、そこに何らかの技巧的な装飾をほどこすことなど容易であったに違いないのに、彼は敢えてそれをせず、自らが書いた文章を生のままの状態で提示してきたのだ、という事実にも気づき、必然的に、その意味や意図についてあれこれと思いをめぐらすことになる。

カエサルの文章を読むという体験はそのようなものであり、だからこそ、彼の文章は見事なものだと言われるのである。

以下は完全な蛇足。
現代の日本は、統治(三権の執行)や論説に使われる日本語どころか、小説や詩において用いられる日本語の文体すら固定化されて久しい、そんな時代である。(誰か異議ありますか?)

だからカエサルの時代のローマとは背景が違いすぎて、「現代日本において、カエサルに相当するような文章家は誰か?」というような問いを立てることはあまり妥当ではないのだが、でも面白そうだから無理を承知でこの問いを提起して、それに答えてみよう。

私の答えは、ズバリ山崎豊子
大昔には新聞記者だったというだけあって、措辞や文法は几帳面なまでに正確でカエサルっぽいし、華麗な文飾に淫するタイプでは全然ないし、それでいて結構複雑な場面を手際よく描写して見せてくれたりもする。
どうだろう?

『ガラス玉演戯』メモ

みずからの文学趣味に自信を失うのは、ヘルマン・ヘッセについて思う時だ。世の玄人はまず彼の作品を褒めないが、彼の後期諸作品の多くは掛け値なく素晴らしいと私は思う。

ガラス玉演戯 (Fukkan.com)

ガラス玉演戯 (Fukkan.com)

『ガラス玉演戯』から読み取ることができるのは、この世界内の価値を超えた、より高きものへの献身と奉仕とをめぐる諸事情だ。私はこの作品を読むたびに、現代社会に残された「大学」という不思議な場について思うところがあり、それについての文章をここに書いてみようとしたのだが、どうしてもうまくまとめられなかった。後日再挑戦を期す。

『ビューティフルコード』のこと

高水準プログラミング言語を使ってプログラムを書くという営みは、明らかに藝術作品を創造することに似た感触を持つ。そして書き上げられたソースコードもやはり藝術作品と同じように、大多数の箸にも棒にもかからないジャンクと、少数の良作と、奇跡的な神品とに分類できる。とするならば、プログラミングやソースコードについて語る文章もまた、その本質において批評的でなければならぬのではないか。

ビューティフルコード (THEORY/IN/PRACTICE)

ビューティフルコード (THEORY/IN/PRACTICE)

この本『ビューティフルコード』は、一流のコンピュータサイエンティストやソフトウェア技術者たちにbeautiful codeに関するエッセイを書き下ろしてもらい、それを一冊の本にまとめよう、という構想のもとで2006年に企画され、2007年にアメリカで出版された書物である。(利益は全額アムネスティに寄付されるとのこと。)日本語訳が出版されたのは、先月の下旬だった。

さて『アンナ・カレーニナ』の冒頭第一文にいわく、「幸福な家庭は皆お互いに似ているが、不幸な家庭はその不幸の形をそれぞれ異にしているものだ」。私が最近この『ビューティフルコード』を楽しく読了したにもかかわらず、そんな言葉を思い出したのはなぜだろう?

『ビューティフルコード』という題名にもかかわらず、そこに含まれる33編の文章のうち少なからぬものが、ソースコードの美しさや洗練について特に主題的に語ってはいないし、そもそも語るつもりもなかったことが明らかだった、ということがある。いや、私は決してそのような著者たちを責めようとしているのではない。彼らにとってソースコードのbeautyというのは、それについて面白い文章が書けそうな主題ではなかったのだろう。それは理解できることだ。

ソースコードの美しさをもたらすものは何かというと、それは普通に考えれば

  1. 優れたアルゴリズムやハックの発見と適用
  2. 工学的な洗練

のいずれかあるいは両方であろう。そのような観点からビューティフルコードについて正面から論じようとした著者たちも、もちろん多くいた。私の好みでは、(1)のアプローチを取る文章のうちベストのものは、平面上の三点の共線性という問題に対する素人臭い取り組みの経緯とあまりにもシンプルな解決方法について語った33章であり、(2)について語る文章のうちベストのものは、各種の基本的な工学的手法を組み合わせてネットワークソフトウェアのためのフレームワークを構築する手法について論じた26章である。

しかし(2)の「工学的な洗練」というものの本質は、間違ったことをやらずやるべきことを全部やるというだけのことで(「アンナ・カレーニナの法則」だ!)、おおむね退屈で当たり前のことだし、(1)の「優れたアルゴリズムやハック」というのは、そのソフトウェアが対象としている領域に詳しくない者にとって、必ずしも理解し易かったり面白かったりするわけではない。だから、少なからぬ著者たちがソースコードの美しさとは関係の薄い題材を取り上げて論じたのも無理からぬことだったと思うのだ。

そんな中異彩を放っていたのが29章を書いたまつもとゆきひろで、彼はひたすらRubyの記法の美しさについて書いている。おそらく、この29章をこの本のなかで最もつまらない文章だと考える読者も少なからずいることだろう。確かにこの文章は「NASAの火星探査機計画」とか「ホーキング教授のための文章入力ソフトウェア」のような面白い題材を扱ってもいるわけでもなければ、興味深いアルゴリズムやハックを教えてくれたり、デザインパターンやparallel/concurrent処理について教育してくれるわけでもない。それどころか、Ruby処理系内部のソースコードを示してくれることさえしないのだ。(スクリプティング言語作成のハックをいくつか教えてくれるぐらい、彼にとって難しいことであるはずはないのに。)

彼のアンチがこの29章を読んだら、「記法の美しさとかどうでも良いことを自慢をしてる暇があったら、さっさとRubyの言語仕様の文書化でもしろよ」などと言って嘲笑することは請け合いだが、でもそれはきっと違うのだ。彼の文章から読み取るべきは、Rubyの記法の自慢などということではない。そんなことではなくて、簡潔で美しいソースコードを書きたいのならば、そのような表現が可能になる記法自体を作り出すのがベストな解決策だ、という主張をこそここから読み取るべきなのではないか。既存の言語ではどうしてもグチャグチャにしか表現できない嫌な問題があるって? なら、それを1行で表現して1行で解けるような言語を作れば良いじゃないか! その言語の処理系の実装は汚くなるかもしれないけど、そんなのは、新たな言語の書き手にとっては知ったことじゃないだろう?

ソースコードの簡潔さやモジュラリティと言った「美しさ」を実現するための最も有効な方法は、問題領域に適したDSLを作成してそれでコーディングすること(つまり「ソースコード」を書く言語を変えてしまうこと)なのであって、そのようなmetalinguistic abstractionこそが、プログラマが持つもっとも鋭利な武器であるはずだ。「美しいソースコード」というようなテーマについて、これ以上決定的な結論があり得るだろうか? 機械語のコードがちっとも美しくないことはもとより明らかなのだから、美しさを論ずる対象となる「ソースコード」の抽象化レベルを一段引き上げることも、ルール違反だとは言えまい。

ちなみに私の見るところ、『ビューティフルコード』全編の中でいちばんつまらない文章は27章だ。中堅企業のレガシーシステムと取引先とを結び付けるJ2EEアプリケーションの受託開発の話だが、出てくるソースコードも書かれている内容も、くだらないという他ない。せっかくの面白い本の中にこんなのが紛れ込んでいるのは目障りなので、いっそハサミでページを切り取って捨ててしまおうかと思っている。

大学の新入生に奨める本

東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊

上掲四大学の教官が新入生に奨める本をあるやり方で集計して順位付けすると、その上位はこんな感じになったとのこと。

  1. 「銃・病原菌・鉄」(ジャレッド・ダイアモンド草思社
  2. オリエンタリズム」(エドワード・W.サイード平凡社
  3. 利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス紀伊国屋書店
  4. カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー岩波書店
  5. 「日本人の英語」(マーク・ピーターセン、岩波書店
  6. 「解析概論」(高木貞治岩波書店
  7. 沈黙の春」(レーチェル・ルイス・カーソン、新潮社)
  8. 「理科系の作文技術」(木下是雄、中央公論新社
  9. 「ワンダフル・ライフ」(スティーヴン・ジェー・グールド、早川書房
  10. 「夜と霧」(ヴィクトル・エミール・フランクルみすず書房
  11. 「人間を幸福にしない日本というシステム」(ウォルフレン、新潮社)
  12. 「ご冗談でしょう、ファインマンさん」(ファインマン岩波書店
  13. ヘラクレイトスの火」(エルヴィン・シャルガフ、岩波書店
  14. 「ワイルド・スワン」(ユン・チアン講談社
  15. 「栽培植物と農耕の起源」(中尾佐助岩波書店
  16. 種の起源」(チャールズ・ロバート・ダーウィン岩波書店
  17. 「進化と人間行動」(長谷川寿一東京大学出版会
  18. 「知的複眼思考法」(苅谷剛彦講談社
  19. 中島敦全集」(中島敦筑摩書房
  20. 方法序説」(ルネ・デカルト岩波書店

ふはは、カラ兄と日本人の英語と高木解析が仲良く並ぶのか、面白いなあ。こんなリストを眺めている時に、もし悪魔が登場して「三つの望みを…」などと話しかけてきたら、本当に魂を売って「大学の一年生に戻りたい」とか言ってしまいそうだ。

そんなわけで誰にも依頼されていない私も僭越ながら、文学、言語、哲学といった分野をこれから学ぼうとする大学新入生のために、推薦図書を勝手に挙げさせてもらおう。文学作品は除外し、またいかにも大学の教科書っぽいものも除く。

(1)高校生のための三部作

  • 『高校生のための文章読本
  • 『高校生のための批評入門』
  • 『高校生のための小説案内』

高校生のための文章読本

高校生のための文章読本

非常に質の高いアンソロジーだ。良い選集を手元において折に触れては紐解き、気になった箇所があったら原典や他の作品に当たる、というのは読書量を増やしていくための基本的な方法なので、そういったやり方に馴染むための出発点としても有用だろう。「高校生のための」という題名があまりにも最悪だが、内容はまったく子供向けではない。人文諸学の王国への出発点はこの三冊の中にある。

(2)言語を生み出す本能

  • 『言語を生み出す本能(上)』
  • 『言語を生み出す本能(下)』

言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)

言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)

カジュアルで楽しい言語学言語哲学の入門書。ああ、専門家が眉を顰めるのが目に浮かぶよ。でも面白いんだってば! それにもちろん、この本からはいろいろな土地に通じる道が延びている。それこそ、文学の村にも、分析哲学の沼にも、計算機科学の都にも、言語学の森にも。

(3)『ヨーロッパ文学とラテン中世』

ヨーロッパ文学とラテン中世

ヨーロッパ文学とラテン中世

文献学という分野の本。ウェルギリウスからダンテにかかった炎のアーチの軌跡を描き出した本、と言えば良いかな。まあとにかく、私の精神の熱をたぶん2℃ほど、しかし永久に、上昇させてくれた本です。この本に夢中になれるなら、文献学者に向いているかも。

(4)『<私>のメタフィジックス』

<私>のメタフィジックス

<私>のメタフィジックス

哲学、それも第一哲学たる形而上学が展開されている本だ。この本を読んで面白かったという人とは絶対に友達になれる。何が書いてあるかというと、概念的には極めて捉えがたい存在<私>の独在性をめぐるメカニズムについて、非常にスリリングに迫っているのだ。こう書いても何の事だかわからないと思うが、とにかくスリリング。字が読めるなら読め、とまでは言えないが、形而上学にアレルギーがないなら是非。この本を読んで肯定的にでも否定的にでも興奮しない人は哲学者じゃないと思う。