文学

遠い昔と遠い未来とをつなぐために

ちょうど世紀の変わり目頃だっただろうか、『ヒカルの碁』のジャンプ連載やアニメ放送に影響されて碁を始める子供が急増し、「小中学生に囲碁ブーム」などとマスメディアでもだいぶ話題になっていたと思う。日本棋院の少年少女囲碁大会の参加者は、毎年1,000…

譲り得ぬ一点

大崎善生『将棋の子』を最近再読した。初読時には気づかなかったが、今回の再読で非常に面白いと思った点が一つあるのでこの記事を書く。本題に入る前に、この本がどういう本なのかという概要をざっと説明しておこう。『将棋の子』は、雑誌『将棋世界』の編…

ポール・ヴェルレーヌ よくみる夢

Mon reve familier Je fais souvent ce reve etrange et penetrant D'une femme inconnue, et que j'aime, et qui m'aime, Et qui n'est, chaque fois, ni tout a fait la meme Ni tout a fait une autre, et m'aime et me comprend. Car elle me comprend, …

文章家としてのカエサル

ガリア戦記 (講談社学術文庫)作者: カエサル,國原吉之助出版社/メーカー: 講談社発売日: 1994/04/28メディア: 文庫購入: 6人 クリック: 49回この商品を含むブログ (36件) を見るガーイウス・ユーリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は文章家として極め…

『ガラス玉演戯』メモ

みずからの文学趣味に自信を失うのは、ヘルマン・ヘッセについて思う時だ。世の玄人はまず彼の作品を褒めないが、彼の後期諸作品の多くは掛け値なく素晴らしいと私は思う。ガラス玉演戯 (Fukkan.com)作者: ヘルマンヘッセ,高橋健二出版社/メーカー: 復刊ドッ…

大学の新入生に奨める本

東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊上掲四大学の教官が新入生に奨める本をあるやり方で集計して順位付けすると、その上位はこんな感じになったとのこと。 「銃・病原菌・鉄」(ジャレッド・ダイアモンド、草思社) 「オリエンタリズム…

「感傷」について

よくよく考えてみると、感傷というのは、実はかなりコクのある心的メカニズムなのではないか?「青空はあくまで高く桜の花ははらはらと風に舞うのに私の心は重く悲しい」というような表現がどうにも安っぽく感じられるのは、「のに」という逆接がそのメカニ…

ポエジーの値段(2)

ポエジーの値段の続き。今回は本の紹介も引用もなしで、論文調でいきます。

ポエジーの値段

世間の自己欺瞞も呆れ果てたものだ。実はあれから一冊、最悪の手記を読んだ。「蒲生原に降る雪――鉄条網の彼方から」なる、強制収容された小学校教師の手記である。(引用略)この後に、世にも下手糞な短歌が入る。それはもう一段落する毎に短歌が入るのだが…

春の詩

春の岬旅のをはりの鷗どり 浮きつつ遠くなりにけるかも 三好達治の「春の岬」という詩。もう、こういういかにもという感じの詩が似合う歳でもないと思うのだが、好きなものはしかたがない。憂愁とか倦怠というのは、どう書いても女子高生ポエムになりやすい…

バベル後遺症

私は大したエスペランティストではないが、何か一つの人工国際補助言語を全世界に普及させるべしという思想には、以前から強く強く賛成している。さらに正直なところを言えば、意見の一致が得られさえするならば、英語、中国語、アラビア語など既存の自然言…

ある罪のかたち

「天の国はまた次のようにたとえられる。 ある人が旅行に出かけるとき、僕(しもべ)たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラン…

『ドゥイノの悲歌 第十の悲歌』冒頭を読んで、改めて溜息をつく

Dass ich dereinst, an dem Ausgang der grimmigen Einsicht, Jubel und Ruhm aufsinge zustimmenden Engeln. Dass von den klar geschlagenen Haemmern des Herzens keiner versage an weichen, zweifelnden oder reissenden Saiten. Dass mich mein stroem…

プリアメル(priamel)

もうずいぶん昔の話になってしまったが、大学院の入学試験についての思い出話を書かせていただく。私が受験した学科では毎年、「ギリシャ語」および「ラテン語」の「韻文」および「散文」、合計四つの中から三つを選んで訳せ、という問題が出題されるのが常…

ボルヘス『バビロニアのくじ』

我々は生物種としては、生まれた時に既にヒト(homo sapiens)だが、しかし生まれた時から「人間」の仲間であるわけではない、と言いたくなることがある。 ここで言う「人間の仲間である」ことの意味は、「現実」と呼ばれるこの開かれた場を、「空間の広がり…

続・山尾悠子について

山尾悠子についての続き。彼女の作品の際立った魅力は、律動的で詩的な文章であろう。文章の美しさについては、前回のエントリーで引用したいくつかの作品の書き出しに、その美点があからさまに現れていると思う。例えばこれだ: 夜を越えまた越えていくうち…

山尾悠子について

私が山尾悠子の作品に初めて出会ったのは、たしか1990年代の後半に国書刊行会から出版された幻想文学のアンソロジーシリーズにおいてであったと思う。そのシリーズの第一巻に『遠近法』が、そして第四巻に『月齢』が収められていたのだった。何の予備知識も…

リルケ『ドゥイノの悲歌』には何が書いてあるのか?

コンピュータで扱うデータはどんなものでも、ビットの並びよって表現されている。よく便宜的にテキストデータ/バイナリデータなどと区別されて語られることがあるが、その間には本質的な違いなど何もない。要するに大量の0と1との塊がある、ということだけ…

美的な構成物のコンパイラ、あるいは情熱の対象

ポール・フォードは、Processing, Processingと題されたきわめて魅力的な文章においてこう語っている: Processingのような、実行形式にではなく絵や歌やデモやWebサイトのような美的なオブジェクトへとコンパイルされるコンピュータ言語に対して、私は情熱…

ドゥイーノの悲歌

1911年から1912年にかけて、ライナー・マリア・リルケは、マリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス=ホーエンローエ侯爵夫人の招きによって、イタリア、トリエステ郊外にあったドゥイーノの古城に滞在していた。侯爵夫人の『リルケの思い出』によれば、1…

「その日の花を摘む」ことについて

「比べてみよう - ホラティウスの翻訳」という記事で取り上げられている『歌集』第一巻第十三歌の翻訳比較に触発されて、私もホラーティウスの別の歌を超訳してみたくなった。 Tu ne quaesieris, scire nefas, quem mihi, quem tibi finem di dederint, Leuc…

古典詩文の実用性

あまり知られていないことだが、古典詩文というものには端的な「実用性」がある。 『イーリアス』であれ『万葉集』であれ『テンペスト』であれ、暗記するほどに読み込むならば、それは実際驚くほど「役に立つ」ものなのだ。高級な椅子を使っていれば腰痛にな…

富貴は吾が事にあらず

ou moi ta Gygeo tou polychrysou melei, oud' heile po me zelos, oud' agaiomai theon erga, megales d' ouk ero tyrannidos: apoprothen gar estin ophthalmon emon. 俺はギュゲス王の溜め込んだ黄金になど興味はないし、うらやましくもない。 神々のやる…

盾の歌、あるいは罪悪感ということについて

aspidi men Saion tis agalletai, hen para tamnoi, entos amometon, kallipon ouk' ethelon: auton d' exesaosa. ti moi melei aspis ekeine; erreto: exautis ktesomai ou kakio. あの盾を拾った敵は、さぞ喜んでいるだろう。 見事な品だったし、俺だって…