遠い昔と遠い未来とをつなぐために

ヒカルの碁 1 (ジャンプコミックス)

ちょうど世紀の変わり目頃だっただろうか、『ヒカルの碁』のジャンプ連載やアニメ放送に影響されて碁を始める子供が急増し、「小中学生に囲碁ブーム」などとマスメディアでもだいぶ話題になっていたと思う。日本棋院の少年少女囲碁大会の参加者は、毎年1,000人台で推移していたのがブームのおかげで5,000人を超えるようになったとか、そんな話もあった。『ヒカルの碁』の監修者でもある梅澤由香里プロが、「漫画を読んで碁を始めた子は、習い事としてやらされている子とは目の輝きが全然違うんですよ」と言っていたような記憶もある。

それはそうだろうと思う。『ヒカルの碁』は現代日本を舞台とし、囲碁を題材にしてジャンプ伝統のバトルトーナメント漫画を構築してみせる、という離れ業を成功させた作品であり、これを読んだ子供は碁を打ってみたくなるに決まっている。
だって碁を覚えればパシーンと石音高くカッコいい手つきで手筋を繰り出したりできるし、碁会所で強面のオッサンをコテンパンにやっつけたり、同年代の宿命のライバルに出会えたりするかもしれないんだぜ。才能があれば日本棋院の院生になって勝ち進み、中学生のうちにプロにだってなれるかもしれない。そしていずれは世界を征服することだって! これはもう、やるしかないよな。

でももちろん、碁にだって適性というものがあるので、歳が若く、碁が好きで、努力をすれば誰でもヒカルのように強くなれるというわけではない。全然ない。『ヒカルの碁』を読んで碁を始めた子どもたちのほとんどは、残念ながら、棋道の蘊奥を究め、本因坊秀策の打碁集を座右に置くような域にはまったく到達しないであろう。これは否定できない事実だ。彼らはそんなに強くはないけど碁が好きな人として、碁以外の領域を人生の主戦場として生きていくことになる。

しかし彼らもいずれ何か他の分野において、人間文化の歴史性という問題や、古典作品あるいは古典作家という存在に本格的にかかわることがあるかもしれない。もしそういうことがあるとしたら、その時に彼らは必ずこの『ヒカルの碁』という作品を思い出すであろうし、その時にはこの作品に描かれた様々なエピソードを道標として、遠い過去に生きた先人に対して戸惑うことなく堂々と、しかし敬虔に、向かい合うことができるであろう。

この『ヒカルの碁』という作品の真価は、まさにここにこそある。主人公の進藤ヒカルとその師匠である藤原佐為の霊とのかかわりをめぐるメインストーリーの様々なエピソードは、ひとりの少年と古典作品/古典作家とのかかわりを、なんと美しく、繊細に、楽しく、一言で言えば完璧に形象化していることだろう。

ヒカル自身の棋力が向上するにつれて、師であり友である佐為の底知れぬ力をいよいよ深く認識し、敬意とともに親しみもますます深まること。
しかしそのように汲みつくせぬ智慧の泉のように見える師がヒカルを教え導くことができる道のりも、客観的な視点からから見れば実は有限でしかないこと。
しかし師弟関係という枠組みの中の弟子という位置にあるヒカルだけは、決してそれに気づき得ないこと。
そして単純な師弟関係の枠組みの中でヒカルが師から学びうることは、ある時点においてついに尽きてしまい、それと同時に彼は師を永久に失ってしまうこと。
師を完全に失う一瞬前までそんな事態の到来をまったく予期していなかったヒカルは、驚愕し、混乱し、絶望し、碁から遠ざかること。
しかしある日ふとした行きがかりで心ならずも碁を打たされた時、自分が考えて打つ手の中、自分が打つ碁の局面の中に、師の打ち手の遠い残響、すなわちいくら探しまわってもどこにも見つからなかった師の臨在を、不意にありありと感じて絶句し、落涙し、これから再び碁を打って生きてゆこうと決意すること。
その後、ヒカルはある夜の夢に懐かしい師の姿を見ること。その夢の中で師は無言で、しかし笑顔で、愛用していた扇子をヒカルに手渡して消えること。
ヒカルはその後、夢で手渡されたものと同じ扇子を買って、それを手に持ち対局に臨むようになること。

これらのエピソードはどれも完璧な強度を持ってくっきりと鮮やかに描き出されているから、読者はその後みずからの人生において似た状況を体験することがあった場合、それがどのような文脈におけるどのような出来事であったとしても、あるいは出来事ですらないかすかな予兆のようなものであったとしても、絶対にそれを見逃すことはない。
それにしてもこの作者(ほったゆみ)は、どうしてこのようなすべてのことを、これほどまでに良く分かっているんだろう?

古典作品に友として親しみ、遠い昔の名人巨匠を師と仰ぎ、もはや世にない者たちとの対話あるいは闘いを通じて何かを手にしようとする者は、人間の文化の言語に尽くせぬ深遠さを体感すると同時に、この世のものならぬ危うい光芒に身をさらし、死者の国の奥底によどむ闇の中を経巡ることにもなる。
そのような旅路から我々の世に生還することができた者は、きっと一本の扇子かそれに類した何かを手にしていることだろう。彼もまたいずれ死者となった後、遠い未来の誰かに扇子を渡すことになるのかもしれないし、そうはならないかもしれない。

一つ確実に言えるのは、彼が手にした扇子は、彼が生涯をかけて得た唯一のものだとしても、十分それに値するということである。