プリアメル(priamel)

もうずいぶん昔の話になってしまったが、大学院の入学試験についての思い出話を書かせていただく。

私が受験した学科では毎年、「ギリシャ語」および「ラテン語」の「韻文」および「散文」、合計四つの中から三つを選んで訳せ、という問題が出題されるのが常であった。どの三つを選択するかは、試験当日に問題を見てから決めることができる。

私が受験した年の問題は、ギリシャ語韻文が『イーリアス』(イリアス)の一節、ギリシャ語散文がプラトーンプラトン)『パイドロス』の一節、ラテン語韻文がウェルギリウスアエネーイス』(アエネイス)の一節、ラテン語散文がキケロー(キケロ)『友情について』の一節であった。

どれも非常に有名な作品ばかりで、一見して楽勝だと思われた。実際に読んでみると、『パイドロス』と『友情について』は文章自体が平易で簡単に訳せるし、『アエネーイス』はもともと知っていて内容を覚えている箇所だったので問題なく、この三つを選べばそれで満点近くが取れそうであった。

ただどうしても気になったのが『イーリアス』だ。私は中学生のころからの『イーリアス』愛好家で、あの作品の中身はだいたい全部覚えているという自信があった。しかし問題文のギリシャ語を眺めていても、それが作品中のどんな場面だったか判然とせず、しかも意味を解釈しようとしても、引用箇所全体の構成が何だかよくわからないのだ:

Troas d' aut' heterothen ekosmei phaidimos Hektor,
de ra tot ainotaten erida ptolemoio tanyssan
kyanokhaita Poseidaon kai phaidimos Hektor,
etoi ho men Troessin ho d' Argeioisin aregon.
eklysthe de thalassa poti klisias te neas te
Argeion. hoi de xynisan megaloi alaletoi.
oute thalasses kyma toson boaai poti kherson
pontothen ornymenon pnoiei Boreo alegeinei,
oute pyros tossos ge pothi bromos aithomenoio
oureos en besseis hote t' oreto kaiemen hylen,
out anemos tosson ge peri drysin hypsikomoisi
epyei hos te malista mega bremetai khalepainon.
hosse ara Troon kai Akhaion epleto phone
deinon aysanton hot' ep' alleloisin orousan.

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

パイドロス』、『アエネーイス』、『友情について』の三問を完璧に訳せれば、それでルール上は満点なのだから別に良いのだが、しかし四問中の筆頭に挙げられている『イーリアス』を訳さなかったら、わからなくて飛ばしたというのがバレバレではないか。『イーリアス』を飛ばすというのは、国文志望の人が『源氏物語』を飛ばし、英文志望の人が『リア王』を飛ばすようなもので、なんというかまあ、馬鹿みたいに見える。それは俺のプライドが許さないが、しかし問題文はよくわからないし…などとウジウジ悩んだ末、結局は『イーリアス』以外の三問を訳すことにしてお茶を濁したのだった。(むろんそれで試験には合格した。)

試験当日家に帰ってまずしたのは、『イーリアス』の注釈書を読むことだった。その注釈書によって私は、この箇所が「プリアメル(priamel)」と呼ばれる修辞技法の使用例として重要な個所であり、入試問題ではまさにそのような文体感覚が問われていたのだということを知った。プリアメルとは、最も言いたいことをいきなりは言わず、その前に、その言いたいことの引き立て役(foil)として、言いたいことに関連する様々なことがらを羅列してみせる、という文章法のことである。

一方トロイア軍を率いるのは勇将ヘクトールで、ここに漆黒の髪のポセイダーオーンとヘクトールとが、一方はアルゴス軍、他方はトロイア軍のために、苛烈な闘いの綱を引き合った。折しもアルゴス軍の船陣に向かって波は轟々と押し寄せて砕け散ったが、たちまちに両軍は凄まじい鬨の声を上げて激突した。
仮借ない北風の息吹に煽られて沖から陸へと沸き立つ波の轟く音もこれほどではなく、また山峡に起こった野火が木立を焼いて燃え盛る音も、また吹き荒れる風が高くそびえ立つ樫の梢をわたる時の唸りもこれに及びはせぬ。ぶつかり合うトロイア、アカイア両軍が上げた鬨の声は、それほどまでに凄まじいものだった。
イーリアス』第十四歌 388ff.

この箇所には、これといって取り上げることができるエピソードのようなものが含まれているわけではない。しかし実に『イーリアス』らしい魅力的な語りではないか。それなのに私は、これを読めなかったのだ。

大学院入試におけるこの「ヒヤリハット」経験は、自分が『イーリアス』に通暁しているとか、健全な文体感覚を備えているとか、そういった根拠のない自信の数々を打ち砕き、私の性根を完全に叩き直したと思う。ある文献に通暁しているとは、有名なエピソードやストーリーラインを自然に思い出せること、などではなく、その文献の文章に内在する呼吸を我が物としていることに他ならないのだ、とこの時になってようやく腹の底から悟ったのだ。

その時から今に至るまで、プリアメルは私にとって最も親しい修辞技法であり続けている。というわけで最後に、川端康成が書いたプリアメルの例を引いておこう。これは単純なプリアメルではなく、実に凝った用例だ。

その後にもう一度、女の人工的な美しさの不思議に打たれたのは、文化学院の同窓会で、宮川曼魚氏の令嬢を見た時である。あの学校らしい近代風な令嬢のつどひのなかに、江戸風の人形を飾ったのかと驚いたが、東京の雛妓でもなく、京都の舞子でもなく、江戸の下町娘でもなく、浮世絵でもなく、歌舞伎の女形でもなく、浄瑠璃の人形でもなく、少しづつはそれらのいづれでもあるやうな、曼魚氏の江戸趣味の生きた創作であつた。
川端康成『末期の眼』

一草一花 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

一草一花 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)