ポエジーの値段(2)

ポエジーの値段の続き。今回は本の紹介も引用もなしで、論文調でいきます。
ある藝術上の題材や様式をみずからの手で確立させ発展させた藝術家による作品と、すでに確立済みの題材や様式をこねくり回しただけのエピゴーネンによる作品とでは、その間に当然価値の差があるとすべきだ、という感覚はぬぐいがたいものがある。

しかしこの一見自然に見える考えは、「藝術作品の価値はその作品自体だけによって決まる」という(やはり自然な)直観ときびしく対立する。たとえば、モーツァルトベートーヴェンピアノソナタのうち何か素晴らしく出来の良い一曲が、彼らによってこの世に生み出されなかったものと考えてみよ。そして今この二十一世紀に、音大の作曲科あたりの学生が、古典的なソナタの摸作課題か何かで、まさにモーツァルトベートーヴェンが生み出さなかったソナタそのものを作り上げたとせよ。さて、そのようにして作られた楽曲は、モーツァルトベートーヴェンが18〜19世紀にそれを作曲した場合と同じだけの高い芸術的価値を持つと言えるのか?

(1)もし同じだけの価値を持つと言うならば、誰か偉大な藝術家を選んでその模倣者として作品を量産することが、高い価値を持つ藝術作品を生み出すための非常に効率の良い方法だということになりそうである。小説家はすべからくプルーストドストエフスキーの作品の摸作にはげんだ方が、自分独自の藝術を追求するよりも現代文学の価値は総体として高いものになるのだろう。

(2)もし同じだけの価値を持たないと言うならば、藝術作品の価値はその作品自体だけからは決まらない、という結論を受け入れなければならなくなる。楽譜を読み、演奏してもその音楽の価値はまだ分からず、その楽譜が21世紀ではなく18世紀に書かれたものに間違いないと歴史家が確認してはじめて、この作品は名曲だ、と言えるようになるのだろう。

つまり私たちは、「創始者の作品と模倣者の作品との間の価値の差」を否定するか、「藝術作品の価値の自己完結性」を否定するか、そのいずれかを強いられているように思われる。この問題についての私の意見を言うならば、私はためらいなく「藝術作品の価値の高低」という概念自体まやかしのものであってそんなものは実在せず、この問題は解く必要のない疑似問題である、と答える。存在するのは「藝術作品の価値の高低」などではなく、「作品の受容のされ方の多様性」だけである、と言いたいのだ。

たとえばモーツァルトの作品は200年以上愛されているのに対し、サリエリの作品は現在ではあまり演奏されない。しかしこの事実を、モーツァルトの作品には不滅の「価値」があったが、サリエリの作品には時の試練を耐え抜くだけの「価値」がなかった、などと「価値」概念に訴えて説明すべきだとは、私はまったく思わない。

ある作品が長期にわたって好まれるか否かというのは、受容のされ方の一つの形に過ぎず、その原因には「偶然」を含むあまりにも多くの事情があるだろうし、そもそも、「長期にわたって好まれ続ける」方が、「ごく短期間熱烈に愛されたがすぐに忘れ去られる」よりもより良いなんて、誰が決めたのか? 同じ論法でいけば、「多人数に好まれる」方が「少人数に好まれる」よりも良いことになりそうだが、じゃあラノベの方が純文学よりも「より良い」ジャンルだってことになるけど、それでいいの?(私はそれでいっこうに構わないけど。ラノベ好きだし。)

どのような批評を受けるか、どれくらいの人数に受容されるか、玄人に好まれるか素人に好まれるか、どれだけの期間生き残るか、同時代や後世の作品にどれだけ影響を与えるか、などなどは、ある藝術作品の一生にその固有性と彩りとを与える重要なポイントではある。しかし、それは様々な社会環境(偶然を含む)から影響をこうむって決まることがらなのであって、それをその作品に内在する「価値」から帰結した必然の結果であるように語るのは間違ったことだ、と私は思う。藝術作品には「価値の高低」などはなく、「様々な受容のされ方」があるのみだ。

音大の学生が作曲の課題でモーツァルトベートーヴェンばりのピアノソナタを作曲した、という例に戻ろうか。きっと彼の課題は教授から高い点数をもらうだろう。しかしそれだけだろう。現代というのは、ソナタ形式の新たなヒット曲が生まれる時代ではないのだから、しかたがない。そしてそれが彼の生み出した課題作品の一生なのであって、それ以外に彼の作品の「本当の価値」が古典作品なみに「高かった」のか否かを問うことは無意味だと言うほかない。