「その日の花を摘む」ことについて

比べてみよう - ホラティウスの翻訳」という記事で取り上げられている『歌集』第一巻第十三歌の翻訳比較に触発されて、私もホラーティウスの別の歌を超訳してみたくなった。

Tu ne quaesieris, scire nefas, quem mihi, quem tibi
finem di dederint, Leuconoe, nec Babylonios
temptaris numeros. ut melius, quidquid erit pati,
seu pluris hiemes seu tribuit Iuppiter ultimam,
quae nunc oppositis debilitat pumicibus mare
Tyrrhenum: sapias, uina liques, et spatio breui
spem longam reseces. dum loquimur, fugerit inuida
aetas. carpe diem quam minimum credula postero.


君だけはそのようなことを詮索したまうな、レウコノエー。我々に定められた命の終わりがどのようなものであるか、知ることは決してできない。天数を計るバビロニアの技も、無駄なことだ。何であれ起こることを、それとして受け入れようではないか。これからもまた多くの嵐があるかもしれず、あるいはまた、今このテュレニアの海を轟々と波立たせている嵐が最後の一つなのかもしれぬが、それがどうであれ、落ち着いて酒を濾していたまえ。いたずらに遠い望みをいだかず、常に目の前にある願いを遂げるのだ。
我々がこうして話している間にも、残酷なまでに速く時は逃げ去ってしまう。明日を頼むことなく、その日の花を摘め。

ホラーティウス『歌集』第一巻第十一歌]

A Commentary on Horace: Odes, Book 1

A Commentary on Horace: Odes, Book 1

この歌を出典とする「その日の花を摘め(Lat. carpe diem, Eng. seize the day)」という言葉は、現在でも一種の格言として広く世に知られている。だが世の人は、この言葉の意味をどのように解釈しているのだろうか? よりはっきりと言えば、この言葉が含む厳しさを、世の人は正しく理解しているのか?

  • 〔解釈1〕人はいつ死ぬかわからないのだから、嫌なことはせず、やりたいことを今日やって現在を楽しめ。(刹那的快楽主義?)
  • 〔解釈2〕今日できることが明日もできるとは限らないのだから、タイミングを逸することなく、チャンスはその日のうちにつかめ。(引っ込み思案や怠慢への戒め?)

「その日の花を摘め」をこんな風に理解するならば、そのような言葉は忘れてしまってもいっこうに構うまい。くだらぬ言葉だ。
だが私が思うには、この言葉から汲み取るべき意味はそのようなものではない。「その日の花を摘め」とは、その日がどんな日であっても必ず花を摘めということだ。「明日を頼むな」とは、たとえその日がどんなに苦痛に満ちた日で、明日がどんなに喜びに満ちた日であるように思われたとしても、楽しいであろう明日の価値を、苦しい今日の価値よりも高く見積もってはならない、ということだ。
一切の救いのない絶望と苦痛の一日も、苦しみからの解放を待ち焦がれる一日も、喜びに満ちた甘美な一日も、それぞれに摘むべき花を持つ一日である。その間に価値の差はまったくない。未来に得られるであろう幸福を待って、苦しい今日から花を摘まぬということは、生における最も本質的で回復不可能な損失に他ならない。
冒頭に挙げた詩を真剣に読むならば、どうしてこれ以外の解釈が可能であろうか。

「その日の花を摘む」ことを、このような意味で理解して真にその厳しさを味わうならば——例えばアウシュヴィッツにおける絶望的な一日にも、本当にその日の花があるのか、と言った問いを逃げることなく考えるならば——それはすでに、生活における祈りという問題の核心に触れていることにもなろう。これについては、また別の機会に書いてみたい。