続・山尾悠子について

山尾悠子についての続き。

彼女の作品の際立った魅力は、律動的で詩的な文章であろう。文章の美しさについては、前回のエントリーで引用したいくつかの作品の書き出しに、その美点があからさまに現れていると思う。例えばこれだ:

夜を越えまた越えていくうちに、馬の背は荒い塩の結晶を噴いた。見渡す限り、数世紀の夜の沈黙(しじま)を守る死火山の麓。谺(こだま)持つ月の尾根を過ぎ、乾き果てた大地の一点をほそぼそと旅していく、おれは騎馬の男である。
『月齢』

この文は定型詩ではないが、しかし明らかに韻律的なうねりを内包している。ことに最後の文、「谺(こだま)持つ月の尾根を過ぎ」と枕詞のような五音の修飾詞で始まり、「乾き果てた大地の一点をほそぼそと旅していく」と前の節を受けて対句的に繋ぎ、一転、呼吸を切って「おれは騎馬の男である」と落とす調子は、まぎれもなく詩人のものだ。

山尾悠子作品集成』に収められた多数の作品を続けて読んでいると、このような名調子の文章が次から次へと出てきて、思わず酔いしれてしまう。だがそうして多くの作品を読んでいくにつれて、彼女は本来の資質においては小説家ではない、ということもまたはっきりと感じられて来てしまうのだ。

彼女の作品の真剣な読者が気づかざるを得ないのは、異世界の設定やストーリーラインがある程度の規模で展開された作品の多くが、その出来において失敗作の水準にある、という事実だ。そのような作品は、世界の設定や物語の展開が端的に未熟であるか、あからさまに記号的かつ寓意的であるかのいずれかあるいは両方であって、いくら文章が美しくとも、全体としての印象は貧弱で、小説としての魅力には乏しいものになってしまっている。例えば「登場人物の命名」とか「直接話法での会話」など、どう見ても山尾悠子はそんなことをやりたくなさそうなのだが、小説にはそういうものがあることになっているから、しかたなくやっている、としか思えない例が散見されるように思う。
逆に成功している作品は、はじめからいわゆる小説的な構成や作法を放棄した、散文詩的なものに多い。

思うに、いわゆる「小説」らしい小説を書いて成功するには、詩人的な文才やセンスの良さだけでなく、なんというか、もっと清濁併せ呑むような度量の大きさと、そのようなある種の粗雑さを受け入れた上でもまだ機能するような、より強力なセンスの良さの表現が必要とされるのだ。残念ながら彼女にはそれがないのだろう。

だが、2003年に出版された『ラピスラズリ』では、連作短編という形によって、彼女のminor poet的な繊細さと大規模なストーリーテリングとがうまく両立されていて、実に良い感じに仕上がっている。(直接話法の会話も、かつてとは見違えるように上手。)
今後もぜひこの路線を追及してもらいたいなあ、と個人的には思っているが、さてどうなるのか。